かきごおりのお庭。

企画の小説とか書いていきます.

以て瞑すべし。

【本文は世界滅亡アンソロジー『くたばれ世界』に投げ捨てられた文章です】 

 

 さて、何をもって滅びとしようか。

 

 ありがちなのはやはり分かりやすい"破壊"だろうか。

要因は無数にあれど、齎される結果は概ね一つ。意思も理由もない破壊。

長い年月を経て建築を積み重ね、保たれてきた数多くのものが、一瞬のうちに何もかもひび割れて、ぼろぼろと崩れ落ちて行くのは、なんとも認識しやすく、絶望に容易い。
それが自分の何十倍という質量や大きさを持つものならば、尚更。抗いようもない圧倒的な力の前には、何であれただ見ている他ないのだろう。

 

 "侵略"というのもある。自分たち以外の誰かが、自分たちの歴史を、文化を、尊厳を、生命を殺し犯し奪い踏み躙る。
また、その誰かは自分たちの把握していた『何か』とは限らず、知覚外から魔の手を忍ばせる輩もいる。
まあオーバーテクノロジー、理解し得ない概念等々。UFOやら、深海の主やら、遥か天の上の何たらやら。
 

 これの"破壊"との違いは、ある一定の境界線だ。その線を超えると、多くは破壊を止めて、侵略していたものを取り込もうとする。
或いはされていた側が、自ら取り込まれに行く。その『中』で、生き続けようとするのだ。
滅びを形あるものの消失、と捉えるような意味合いでは趣が異なるかもしれないが、何かの断絶、という意味合いならばこれもまた滅びと私は捉える。
 


 そんな数ある中でも私が捨て難いのは、”淘汰"だ。ある時においての、点ではなく、線としての滅び。
地位や立場を問わず、世界において劣等し、生きる場所を追いやられ、音もなく、風と共に消えていく。
こいつは誰かも何もない。怨恨や損得すらない。あるのは種としての本能。憐れとすら思わせる程に研ぎ澄まされた生存欲求。
種としての永遠の繁栄など無い。無情に思えるが、滅びの前に永遠はない、永遠の前に滅びはない。至極当然のことを感じさせてくれる、悲哀すら思わせる稀有な滅びだ。

 

 

 きっと言葉で表せば、キリがない。それくらいに世界は、滅びに満ちている。


 砂が硝子の隙間を抜け落ちる時。


 雪がほのかな熱の篭る肌に雫を落とす時。


 灰が炎に浮いて闇夜に消える時。


 光には影が伴うように、興りがあれば滅びもある。語り尽くせぬそれが、遍く世界に滲みわたっている。


 だからこそ、多数の解釈がある。見え方の角度を少しズラすだけで、照らす光は輪郭を変える。絶望であるし、希望である。生であり、死である。儚くもあり、不朽でもある。
 
 ならば真なる滅びとは一体何だろう。誰が見ても、何処から見ても、二つと無く、価値の等しく、正しい滅びとは。

果たして――――――――

 
 ――――さて。何をもって、滅びとしようか。