かきごおりのお庭。

企画の小説とか書いていきます.

悠久の音色


彼女からお礼にと受け取った、小ぢんまりした木製のピアノ。
届いてすぐには、弾かなかった。
しばらく、何もない机に置いて、放っておいた。
またしばらくして、何となく倉庫に押し込んだ。
それを繰り返して、理由もなく、持ち歩くようになった。

 

どうして弾かないのか。
気恥ずかしかったのかも。
何年も押し込むことはなかった鍵盤。
もう一度、それにピアニスト気取りで触れるのが。


――――依頼が早めに終わり、いつもよりも少し余裕のあった、夜。
帰る場所がないから、見回りついでに3区の街をぶらついて、時間を潰す。
そして辿り着くのは、廃教会。
割れたステンドグラスは、今も光を透かす。

崩れた長椅子に腰を下ろして、肩の力を抜く。
脱力すると、目は上を目指す。
そして取り出したるは、件のピアノ。

今ならいいだろう。誰もいない。誰も居ないから、少しだけ。


厚手の手袋を外し、ピアノを膝に敷いて。

震える指を、白い、白い鍵盤に、ゆっくりと落とす。
指の腹を着けて。
踏ん切りのつかない自分に叱咤して、僅かな力をこめ、下ろせば――――

 

――――可愛げのある、柔らかい音色が響いた。
古臭くおんぼろな教会には、不釣り合いなほど繊細で、小さい音が。

ポロン。たった一音だけ。一音鳴らしただけだ。
それなのに。

 

 

『鳴らせるじゃん、音。』

 

 

何故だか彼女の笑い声が聞こえたような気がして。馬鹿にするような、無邪気な子供のような。そんな笑いが。
それと共に、手の余計な力は何処かに吹き飛んで行った。


指が動く。動く。
簡素な音色。拙い音。それでも、奏でる音は赤ん坊の産声にも似て、脈動に溢れていた。

音が自分を囲み、踊る。
鍵盤はとても足りないが、今の自分にはこれで十分なのだ、きっと。

 

指が旋律を紡ぐ中で、思い耽る。

 

――――分かっていた。ただ、怖かっただけだ。
今まで、鍵盤を触らなかったのではなく、触れなかったのだ。

鍵盤に触れるときはいつも、"一人"だったから。

『また、一人になるかもしれない』。

また、誰も居なくなる。誰も。その内自分すら消える、その空間が訪れる。
脳裏に過ったそれが、離れなくて。藻掻いては埋まる泥濘の如く、囚われて。

 

もう、良いだろう。そんな惨めな呪いに縛られるのも。たかが楽器に、何を思うのか。
余りにも杞憂だった、簡単な事だった。細い細い、たった一本の指で、それは変わったのだ。

最も、その指は。彼女がいなければ、下ろされなかっただろうが。

気付けば、鼻歌すらも泳がせて。


もしかしたら今、彼女もこの街にいるかもしれない。
もしそうであれば、届くといい。届けてやろう。小さな小さなピアノから、遥かな音を風に乗せて。
きっと来るだろう、君なら。
ゲリラリサイタルには、口やかましいオーディエンスだって必要だ。

 

――――ありがとう、ハナ。また少し、楽になった。
思いは、音と共に。