消えられない。
確かに、死んだはずなんだ。失意のままに、あの部屋に呑まれて。遺していく君のことを憂いながら、柄にもなく涙を流して。それでも何とかどうにか、弱みは見せないまま逝けたと思ったのに。
どうして?
意味を問う疑問ばかりが頭に浮かんでは蒸発していく。その行為にすら意味はないというのに。身体を失い魂だけが残ったらしい今、何ができるというのか。何をしろというのか。誰も何も教えちゃくれない。
自分だったものが運ばれていくのを静かに見送った。何の変哲もないが故に、不気味極まりないその黒い正方形の箱を、丁寧に丁寧に扱い運ぶその様は何とも、滑稽で。馬鹿らしい。
クソったれな事に、僕のいなくなった後の光景はそのまま見えてしまう。当然だ。まだ僕はここにいるんだから。今まで消えていった君達も、こういう風に見えてたのかな?今まで見たどんなモノよりも酷く惨い拷問だ。何が楽しくて、大切な人達の、そんな面を見なきゃいけないんだ。なあ。教えてくれよ。
何も言わず、何も告げず、卑怯に消えていった。怖かったんだ。どんな顔して、今から死んで来るよ、だなんて言えばいいのか。告げられた君が、どんな反応をしてしまうだろうか。想像に出来るかと思えば、それはどうも難しくって。今まですっと浮かんできた君の顔が、今ではもう、まるで見えないんだよ。
これも、運命か、だってさ。笑えるね。笑えないけど。
自嘲だけを繰り返し、時間が経つのを待った。審判の後の喧騒を聞こえないふりをして、立ち竦んでいた。下を俯き続け、何も、見えないように。
聞き覚えのある泣き声が、耳に響いていた。
そして、あの騒ぎが嘘のように、静まり返る夜。
西京の時間は止まっているから、長い間夜のまま、体内時計の狂う中、人は寝床についていく。
すっかり人の消えた廊下を、散歩のように歩く。音のない廊下。死んだ身でも、感情はある。落ち着かない身体を鎮めるように、足を動かす。
そうして歩く中、見計らったかのように真横のドアが開き、見覚えのある人物が一人、二人と出ていく。どうせ身体は当たらないのに、思わず身を横に退けてしまう。
出てくるのは眼鏡をかけ、ループタイが洒落ている黒髪の青年と、男装かと見紛う雰囲気を纏う泣きぼくろの女性。二人とも、彼と親密にしていた人だったから、部屋の中の人は、察せられて。
おやすみと言い合って別れていく二人を見送って、閉じていくドアを見ながら立ち止まっていた。入っては、いけない。そう言い聞かせる心と裏腹に、身体は勝手に動いていて。
ドアをすり抜けて入った先に。仄かな黄色の灯りに照らされた寝ている君が見えた。
近付いてしまう。そしてより鮮明になった君の顔を見れば、泣き疲れたように、眠っていた。どんな顔をしているかは、分かっていたのに。泣き腫らしたその顔を、また見てしまった。またその顔を、させてしまったんだ。深い後悔に苛まれる。
思わず手を君の顔に添わせようとして、虚しくも手は、空を切る。そしてそれを見てまた、力なく拳を握る。何も出来なくなった自分を、ただ憎んだ。
限界になった心が、言葉が。行き場を求める。奥底から、漏れ、溢れ出る。
「…ああ。なんて、顔。」
「また、辛い思いをさせてしまったんだね。ごめんね。」
誰にも届かない。君にさえ届かない。
「…ねえ。ロゼ。」
誰にも、聞こえていないのなら。少しくらい。
「死んでから。死んだからなのかな。君とやりたい事が、無数に、浮かんでくるんだ。」
許してくれるかな。
「いっぱい。沢山。本当に、色々…。」
ぽつぽつと。
「…ねえ。僕はロゼの事、分かってあげられてたのかな。」
固く、きつく締めたはずの覚悟の紐は。
「ロゼは、僕の事、知りたかったのかな。」
いつの間にか。知らず知らずのうちに。
「まだ、謝り切れてないのに。今までした事、償いきれてないのに。」
緩んでいたようで。
「まだ、死ねなかった、のに。」
ぼろ、ぼろと。
「まだ。」
中に隠していた弱い僕が。
「死にたく、なかった。」
転がっていった。
「しにたく、なかった。ひとりに、なりたく、なかった…。」
抑えきれなくなった涙とともに。漸く吐かれた弱音は地に落ちる。誰の耳にも、届かない。
君の前で、泣いてしまった。君の泣き虫が、うつったようで。大粒の涙がぼろぼろと、止まらなくて。いつからだろう。人前で泣くことを良しとしなくなったのは。人に、泣いて頼ることを、自ら封じたのは。
「もし、もし」
「次が、あったなら」
「どこか遠くに、生まれたい」
「それで、君を知らず、会わずに生きていたい」
「もう、君の顔を見たくない」
「もし君にまた、会ってしまったら」
「きっと僕の事だから」
「どうせまた」
「君のことを、好きになってしまうだろうから」
「君とまた、生きていたいだなんて思ってしまうだろうから」
「もう、君のそんな顔を見たくないから」
「さようなら」
「願わくば」
「…もう二度と、会えませんように。」
嗚咽交じりに、涙ながらに漏れ出た言葉。君へ贈る、生きた僕の、最期の言葉。
ドアをすり抜けて、部屋を後にした。
歯を食いしばって、鼻をすすり、涙を汚らしく垂らした。
止まれよ。クソ。
洒落たビデオレターまで残して、死ぬ覚悟がさもあるような振りをした。君の前で、強い人であるという素振りをした。まだ子供らしい君の前で、もし僕が弱い姿を見せてしまったら。君の頼れる人を、消してしまうだろうから。見せられなかった。決して見せてはいけないと、強く自分の中に刻み込んだんだ。天照に来る前の、ハイランドの、あの日から。
死んだ今、思うんだ。もし僕が、心の内を君に包み隠さず話していたら。君は抱き締めてくれたかな。一緒に、歩いて行けたかな。そんな淡い希望を、僅かに抱いた。今となってはもう、過ぎたことなのに。もう、遅い。
思えばずっと、一方通行だったような気がした。ずっとずっと、僕が一方的に思いを突き付けていたような。ビデオレターだって、きっとそう。あれを見た後の君を、考えているようで、まるで考えてなかったんだ。何も残さない方が、良かったかな。そっちの方が、君は案外すっぱり僕を切り捨てられて、生きられたかもしれない。
ただ、泣いてほしくなかった。
君の笑った顔の方が、ずっと好きだったんだ。君の泣き顔よりも、笑顔を見て、一緒に居たかった。叶わなくなった願いが、僕の中を埋めていく。
嗚呼。
消えて、しまいたい。